「波佐見焼」の産地として、日本全国に知られている長崎県東彼杵郡波佐見町。
前回は町の魅力に迫った。本記事では、400年以上の歴史がある伝統工芸品である「波佐見焼」が、どのようにして今日も受け継がれてきたのか。波佐見という土地だからこそ可能にした、モノづくりの在り方をご紹介する。
【波佐見①】豊かな自然に育まれた歴史深い陶芸の町
※本記事は西海陶器株式会社のご協力のもとスポンサー記事としてJAPAN MADE編集部が作成しています
大衆に支持されたやきもの「波佐見焼」
16世紀末から、つくられている波佐見焼。当初は陶器をつくっていたが、良質な磁器の材料が発見されてからは磁器づくりを行っていくようになった。波佐見焼は大量生産を得意とし、江戸時代に普及した「くらわんか碗」は「磁器は高いもの」という、それまでの常識を覆し、庶民に支持されることとなる。
一体となり、支え合ってつくる
波佐見焼の特徴の一つが『分業制でつくられている』ということである。
器の原型となる石膏型をつくる「型屋」
型を元に、器の生地をつくる「生地屋」
生地を元に絵付け、釉かけ、焼成を行う「窯元」
そして、つくられた波佐見焼の販売をサポートしているのが「商社」である。元々は親族や家族で営んでおり、兄がつくり、弟が売るといった役割分担を行ううちに、分業制になっていったそうだ。最盛期には工房に向かうシャトルバスが運行され、窯元と商社で出社時間を分け、混雑に対応するなど大変な賑わいだったと当時を知る人が語ってくれた。
中尾山や西の原に今も残っている製陶所跡を訪れると、たくさんの人達が働いていたことが容易に想像できるほど広い。身内のような間柄のため、困った時は助け合う風土があり、町も人も穏やかに、モノづくりに携わっている。それも目には見えないが、現地で垣間見ることのできる波佐見焼の特徴と言えるだろう。
“札の撤去”でオープンマインドなモノづくりを実現
中尾山では細い路地が張り巡らされ、迷路を辿るかの様に各工房を巡ることができる。互いの工房を行き来することも多く、非常にオープンな雰囲気がある。しかし、以前からそうだった訳ではないと町の人は話す。
実は波佐見でつくられるやきものが「波佐見焼」として流通しているのは、ここ数十年のことだ。江戸時代は伊万里焼として、明治時代は有田駅から出荷されていたため、有田焼として流通されていた。やがて産地表示の厳格化が活発になり、有田焼ではなく「波佐見焼」として、生産・販売され、その名が知られることとなった。
それまでは各工房の軒先には『立入禁止』の札が貼られ、製造方法は各窯元で厳格に守られ、門外不出で交流も少なかった。波佐見焼として「新しいモノづくりの在り方をつくっていこう」となった際に、まず立入禁止の札を撤去したことで、交流が増え、町の雰囲気も変わり、自由なモノづくりが行われるようになっていったそうだ。
現代では敬遠されるが、かつては「引き出物は重い方が縁起が良い」とされ、やきものが重宝された。やがて生活様式の変化とともにニーズも多様化。引き出物として選ばれることが減り、扱っていた商社が廃業。窯を閉じる窯元も増えていったという。そうして波佐見町では最盛期よりも工房が減ってしまった。しかし、最近では祖父の代に閉じた窯を孫の代に再開するという窯元もあり、新たな波佐見焼を生み出している。シンプルだが洗練されたデザインで、和にも洋にも合う波佐見焼。各窯元の趣を楽しみながら、あなた好みの逸品を探して欲しい。
【波佐見③】生きがいを感じながら交流を楽しめる町へ
長崎県のほぼ中央、東彼杵郡北部の内陸部に位置し、長崎県内で海に面していない唯一の町。400年の伝統をもつ全国屈指の「やきものの町」として栄えてきた。日本国内の一般家庭で使われている日用食器の約13%は波佐見町で生産されたものと言われている。町内には陶磁器に関する約400の事業所があり、町内の約2,000人が窯業関係の仕事にたずさわっている。
https://ps-q.jp/tourism/hasami-town/